2008年03月09日

第9章: 数学的な世界

この章の翻訳を担当したのは、siuyeさん、hoytさん、Kahjinさん、optical_frogさん、ALeoさん、黒影です。

[9-1]1st par in chap 9 - Science for all Japanese
[9-1,2]Science For All Americans 第9章 ”数学世界” - siuyeのメモ
[9-3,4] - siuyeのメモ
[9-5,6] - siuyeのメモ
[9-7,8,9]
[9-10]2008-03-19 - 雪国はつらつ製作所
幻影随想 別館: Chapter 9:[9-11]-[9-15]
[Science][SFAA]Chapter:9-16の和訳 ≪ Kahjin’s Weblog
[Science][SFAA]Chapter:9-17の和訳 ≪ Kahjin’s Weblog
[Science][SFAA]Chapter:9-18の和訳 ≪ Kahjin’s Weblog
[Science][SFAA]Chapter:9-19の和訳
[Science][SFAA]Chapter:9-20の和訳
Science For All Americans 第9章 ”数学の世界” - siuyeのメモ[9-21][9-22][9-23]
幻影随想 別館: Chapter 9[9-24]-[9-25]
[Science][SFAA]Chapter:9-26の和訳 ≪ Kahjin’s Weblog
[Science][SFAA]Chapter:9-27の和訳 ≪ Kahjin’s Weblog
[Science][SFAA]Chapter:9-28,29の和訳 ≪ Kahjin’s Weblog
[Science][SFAA]Chapter:9-30の和訳 ≪ Kahjin’s Weblog
[Science]Science for All Americans翻訳プロジェクト ≪ Kahjin’s Weblog[9-31]
[Science][SFAA]Chapter:9-32の和訳 ≪ Kahjin’s Weblog
[Science][SFAA]Chapter:9-33の和訳 ≪ Kahjin’s Weblog
Chapter 9: THE MATHEMATICAL WORLD:修正案[9-31][9-32][9-33]:「標本抽出」の項目 - left over junk
推論[9-34] - siuyeのメモ
推論(続き)[9-35] - siuyeのメモ
siuyeのメモ [9-36,37]
siuyeのメモ[9-38]
推論(続き)[9-39,40,41] - siuyeのメモ
推論(最後)[9-42][9-43] - siuyeのメモ

     

第9章:数学世界

記号の間の関係

形象

不確実性

推論


第9章:数学世界

[9-1]

数学は本質的には抽象的で,論理的につながった概念のネットワークを構築したり,利用したりすることによって生ずる思考のプロセスである.これらの概念は,科学的,技術的また日常生活問題を解く必要から生ずるものであり,その問題は複雑な科学的な問題のある側面をいかにモデル化するかといったものから,いかに小切手の残額の帳尻を合わせるかといったものまで多岐にわたる.

[9-2]

この章では基本的な数学的概念,特に実用的な応用を持ったものについて紹介する.これらはほとんどすべての人類の営みにおいて重要な役割を果たすものでもある.2章では数学はモデル化プロセスであるとした.そのプロセスの上で,抽象化がなされたり操られたり,また含意が本来のシチュエーションに対して照らしあわされたりする.ここではそのようなモデリングにおいて有効な数学パターンとして,以下の7つの例を中心に説明する:数の性質とその利用, 記号関係,形,不確実性,データの集約,データのサンプリング,そして推論である.TOP

[9-3]

「数」にはいくつかの種類がある.それらを互いに作用させあう論理と組み合わさって,「数」は面白い抽象系(システム)となり,また非常にさまざまな形で役立ちうる.古くからの数の概念は,物の集まりがあったときその物がどれだけあるかを数える必要性からおそらく生じたものであろう.よって,指や,容器に入った小石,石版上の印,枝につけられた刻み,紐の結び目などはいずれも数量を記録しておくための方法であり,数量自体を現すものでもある.時代は下って,過去2000年ほどの間,さまざまな記法により数は表されてきた.アラビア数字は現在最もよく用いられる記法であるが,十個の記号(0, 1, 2, ... , 9)とそれらを組み合わせるルールにより成り立っている.そのルールでは数字の位置は非常に重要な意味を持つ.たとえば,"203"という表現では,3は三を,2は二百を,0は十の位に値がないことを表す.二進法−コンピュータにおける数学言語−ではたった二つの記号,0と1のみが用いられ,その組み合わせの列でどんな数をも表すことができる.ローマ数字はいまでも目的に応じて用いられる(ただし計算のために用いられるのは稀である)が,少数のアルファベットとその組み合わせルールにより成り立っている.たとえば"IV"は四を,"X"は十を,そして"XIV"は十四を表すが,零を表す記号は存在しない

[9-4]

数にはいくつかの種類がある.物の個数を数えることから生じた数が整数であり,われわれが日常生活で最もよく用いる数でもある.整数それ自体は集合の中に物がどれだけあるかを示す抽象概念であり,物自体に関するものではない.「三」はリンゴでも,岩でも,人間でも,また他の何にでも使うことができる.しかし,もっともありそうなシチュエーションは,われわれは対象物が何であるかを知りたいのと同様,何個あるかをしりたいというものである.よって,ほとんどの計算に対する答えは数量もの(こと)の大きさ−単位ラベル付の数である.とある人が3時間で165マイル進んだとすれば,その平均時速は毎時55マイルであり,「55」ではない.この例では165, 3, 55が数であり,165マイル,3時間,毎時55マイルが数量もの(こと)の大きさである.単位ラベルは数の意味するものが何であるかを記すという意味で重要である.

[9-5]

分数は,何かの部分を表すために,もしくは二つの量を比較するために用いられる数である.よくある比較は,長さや重さのような数量を計るときになされる―すなわち,メートルやポンドのような標準の単位量との比較である.分数を表すのには二種類の記号が広く用いられているが,それらは数値的には等価である.たとえば,通常の分数 3/4 と十進法の小数 0.75 は共に同じ数を表す.しかし,計測された数量を表す際には,この二つの表現は少々異なったものを意味することとなる:計測値 3/4 は2/4よりも4/4よりも単に3/4により近いことを示すために用いられるのに対し,計測値0.75は0.74より0.76よりも0.75に近いことを暗に意味している―より正確な特定を行っていることとなる.整数と分数は併せて使われうる.例えば1 1/4, 1.25, 125/100, そして 5/4のようなものである.これらは数値的にはすべて等しい.

[9-6] 数学は負の数を導入導入することにより,より柔軟性を高めることとなる. 負の数は数直線上で捉えることができる.数直線は中央を0とし,直線上に等間隔で数字を順に並べたものである.0から見て片側は正,もう片側は負と呼ぶ. 0の右側が正であるなら,左側は負である.海面よりも上に位置するならば海抜正であり,下に位置するならば負である.収入が正ならば借入は負である.2時15分が開始時刻だとすると,2時10分はマイナス5分となる.数の全範囲―正,ゼロ,負―を考えることにより,どんな数からどんな数を引き算しても,答えが得られることとなる.

[9-7]

計算は数と他の記号に対する操作であり,新たな数学的記述へと導くものである.これら他の記号は数を表すための文字であってもよい.例えば,ある特定の問題を解こうと思ったとき,Xを問題の条件に見合うような任意の数を表すとしても良い.また数を表す記号上でどのような演算を行うかを表す記号もある.もっとも一般的なものとして,+, -, x, と / (訳注:÷)がある(これ以外にもある).演算 + と - は互いに逆であり,x と / も同様である.すなわち,一方の演算は他方の演算結果を元に戻すこととなる.式 a/b は「量bと比較したときの量a」または「aをbで割ったときに得られる数」または「サイズ1/bをa個分」を意味する.a(b + c)における括弧はbとcの和にaをかけよ,と言っている.数学者は数の系について,その性質と関係を発見しようと,また正しい結果を得るための数式記号を操作するための規則を工夫しようと研究を行っている.

[9-8]

数にはたくさんの異なった利用法があり,量に関するものではなく真に論理的なものもある.たとえば物を数える際,ゼロは「何もない」という特別な意味を持つ.しかし,普通温度計ではゼロは単なる目盛りのひとつであり,温度が存在しないこと(もしくは他の何か)を示すものではない.数はものをある順番に従って置くのに使われたり,それが他のものより大きいのか小さいのかを示すだけのために―その値自体を示すためではなく―用いられたりもする.例えばレースにおける順位や,住所の番地,スコア値自体の違いがなんら統一された意味を持たないような心理テストの結果などがその例である.そしてまた,なんら意味のある順番とは関係なく単に区別だけのために数が使われることもごく普通にある.例えば電話番号や体操着のゼッケン番号,ナンバープレートなどはそうである.

[9-9]

日々のそのような数の使い方を離れて,数それ自体面白いものである.有史以来人間はさまざまな問いを発し続けてきた.曰く,もっとも大きな数は?小さな数は?どんな数もある整数をもうひとつの整数で割った形で表すことができるのか?円における円周長と直径の比(円周率)のような,いくつかの数は数学者だけでなく多くの人々の心をとらえてきた. TOP

 

[9-10]

記号の間の関係

数とその間の関係は,記号的な記述によって表される.そうした記述を用いることで,現実にある色々な関係をモデル化し,調べ,そして表現するための方法が得られる.私たちは,一つの量や一つの領域にしか興味を示さないと言うことは滅多にない.むしろ,私たちは普通それらの間にある関係に興味を持っている--年齢と身長の関係,一日の時間と温度の関係,政党と年収との関係,性別と職業の関係のようにだ.こうした関係は,(グラフやチャートに代表される)絵や,表,代数的な等式,もしくは言葉を用いて表現することができる.特にグラフは2つ以上の量の間の関係を調べるために有効である.

[9-11]

代数学は数学の一分野である。代数学では、数量を記号として表現し、記号に関わる計算式を操作することによって、異なる数量の間の関係を探求する。代数式は場合によっては、ただ一つの値や複数の値が数式を成立させることを意味する。例えば、「2A + 4 = 10」という計算式は、A = 3の時に成立する。しかしより一般的には、代数式は、ある数量がある範囲のすべての値を取ることを許容し、対応する各数量の値が何になるかを示唆する。例えば、「A = S^2」という計算式は、変数Sのどのような値に対しても、対応する変数Aの値を特定する。

[9-12]

二つの変数が取りうる関係には、多くの種類がある。分かりやすい例の基本的な一覧には、以下のようなものが含まれる。(1)正比例(一方の数量が、もう一方の数量に対し常に同じ割合を保つ)。(2)反比例(一方が増加するに従い、もう一方は比例して減少する)。(3)加速(一方の数量が一様に増加するに従い、もう一方は加速的に増加する)。(4)収束(一方の数量が無限に増加するに従い、もう一方の数量はある限界値に近づいていく)。(5)周期的(一方の数量が増加するに従い、もう一方は周期的に増減する)。(6)段階的(一方の数量がなめらかに変動するに従い、もう一方は段階的に変化する)。

[9-13]

代数式は、同じ関係を持つ別の数式(興味のある何らかの側面をより明確に示すかもしれない数式)を作るために、数学的論理の法則によって操作することが可能である。例えば、我々は、ページの幅:P、一行の長さ:L、各余白の幅:m の関係を、「P = L + 2m」という代数式で表すことが出来る。この方程式は、ページ構成を決定するための有用なモデルである。この数式は、同じ元の関係式を持つ別の数式を得るために論理的に再構成することも可能である。例えば、方程式「 L = P - 2m」や「m = (p - L)/2」は、Lやmの実効値を計算するためにはより便利であろう。

[9-14]

場合によっては、我々は二つ以上の異なる関係を同時に満たす値を見つけ出すことを望むだろう。例えば、我々はページ構成モデルに別の条件(一行の長さはページ幅の2/3でなければならない:L = 2/3P)を加えることが出来る。この方程式と「m = (P-L)/2」を結合させることで、我々はその結果「m = 1/6P」に論理的にたどり着く。二つの方程式を一つにまとめることによってもたらされたこの新しい方程式は、両方の方程式に当てはまるmの唯一の値を特定する。このわかりやすい例では、余白の幅の特定は、記号の関係を使うことなくすぐに解くことが可能であった。しかし他の場合には、解にたどりつく、もしくは解を得ることが可能かどうかを判断するためには、問題を記号で表し操作することが不可欠である。

[9-15]

多くの場合、我々に最も興味を起こさせる数量は、変化そのものよりも、どれだけ早くその変化が起こっているかである。場合によっては、ある数量の変化率は、いくつかの他の数量に依存する。例えば移動する物体の速度の変化は、その物体に加えられた力に比例する。別の場合には、変化率は数量それ自体に比例する。例えばネズミ集団に新しく生まれるネズミの数は、既にそこにいるネズミの数と性別に依存する。 TOP

[9-16]

形象

空間パターンは基本的な幾何学的形象の小さなブロックの集まりとそれに関連する記号表現を組み合わせたもので解釈できる。人がこの世界を感じる(理解する)ためには、その形とパターンを知覚できるかどうかに強く依存している。身の回りにある人の創作物(建築物、車、おもちゃ、ピラミッド)や自然界でよく見られる形態(例えば、動物、葉、石、花、月や太陽)は幾何学の用語でその特徴を表すことができる。幾何学の概念や用語のいくつかは我々が普段使う言葉の一部になってきた。現実世界にあるオブジェクト(物体)を幾何学的図形で完全に表せるわけではないが、オブジェクトと幾何学的図形は近似しているため、我々が知っている幾何学的図形やそれらの間の関係は現実世界のオブジェクトに応用できる。点、線、面、三角形、長方形、正方形、円や楕円;立方体や球体;相似や合同の関係;(曲)線の凹凸、線の交差や接線;二つの線や面で挟まれた間にできる角度やそれらの平行関係あるいは垂直関係;偏向、反射、回転のような対称性を持つ形態やピタゴラスの定理などが多くの目的において有効である。

[9-17]

形とスケールの両方がシステムのパフォーマンスに重要な結果をもたらす。例えば、(2点の線より)3点の面で考える方が、堅牢性が最大化される。表面がなめらかだと、乱雑性が最小化される。どんな質量あるいは体積の物質でさえ、球状の入れ物に入れると、その総表面積が最小化される。同じ形を維持したまま、その物体の大きさだけを変えてやると、幾何学のスケールの概念のおかげで、(大きさが変わっても)すでに分かっている同じような効果を持つことができる。面積は二次元で体積は三次元としての拡がりを持つ。他方で、フラクタルとして知られている面白い特殊な形象パターンはスケールに関係なく、いくつかの自然現象で見られるパターンととてもよく似ている(それらは雲、山や海岸線などの形と似ている)。

[9-18]

幾何学的関係は記号と数で表現できる。逆もまた然り。コーディネイト(よく考えられた、整理された)システムを組み立てるというのは数と幾何学を関連させる方法と似ている。最も簡単な例で言えば、仮に点を0と1の存在しているかしていないかと考えるなら、数は線上にある特殊な点として表現できるし、平面上の位置というのはいくつかの数と補助(線や記号)でその特徴を表せる。例えば、地図上の左側からの距離や下側からの距離、あるいは、地図の中心からの距離と方向などである。

[9-19]

コーディネイトシステムは正確な地図を描くために必須である。しかし、そこにはいくつか曖昧な点がある。例えば、地球面の近似したものを平面で表現しようとすると、ディストーションなしでは表現できない。2、30kmぐらいなら、その違いは問題にならないが、それが数100km、数1000kmにも及ぶと、歪みが必ず現れる。多様な近似表現の中には、形、範囲や距離のディストーションが何種か含まれているものだ。典型的なものは地図で極に近い地域の大きさが誇張されているのは明らかである(グリーンランドやアラスカ)一方、表現としては誤りだが、2点間の最小の距離はどれくらいか、あるいは隣接するものは何と何かというときに役に立つ場合がある。

[9-20]

形を数学的に扱うことも数字と記号の関係を描画抽象していることになる。(形の)属性は棒グラフや円グラフのように長さや面積として図式化されることもあるし、線図や散布図のように基本軸からの距離として図式化されることもある。形を図式化して表示させることはそのままでは不明なものでも容易にそのパターンを見つけることができるからである。例えば、相対的な大きさ(割合や差分)、変化率(傾き)、急激な不連続性(ギャップやジャンプ)、クラスタリング(プロット間の距離)や傾向(傾きや推移の変化)など。幾何学的関係を数学的にアプローチすることは複雑な構造のデザインを分析するのに役立つ。例えば、たんぱく質の分子構造や飛行機の翼構造、脳細胞間の結合や長距離間テレホンシステムのようなロジカルネットワークなど。 TOP

 

[9-21]

不確実性

確率

世界がいかに動いているかについて,我々は少なくとも以下の5種類の不確実性のため,完全に知ることはできない:(1)何かに対して影響を及ぼしうる全ての要因がなにか十分に知ることができず,(2)それらの要因がわかったとしても十分に観察することができず,(3)観察できたとしても正確性に欠け, (4)正確な情報が得られたとしても,それらを統合する適当なモデルをを持たず, (5)そのようなモデルがあったとしても,そのモデルに基づいて行う十分な計算力がない.いくつかの事象はかなり高い精度で予測ができる(日蝕)し,また規則にのっとった精度で予測できるものもある(選挙)が,また非常に低い精度でしか予測できないものもある(地震).絶対的な確からしさを保証することはしばしば不可能ではあるが,またしばしば―大きかれ小さかれ―あることが起こる見込みの見積もることができるし,またその見積もり誤りのとりうる幅をも見積もることができる.

[9-22]

見込みを数値的な確率として表すことは,しばしば有益である.通常,確率は0から1の値をとり,0はとある事象が間違いなく起こらないと信じられることを意味し,また1は間違いなく起こると信じてよいことを,そしてその間の値はどんな値でも不確実性を持つことを示している.例えば,確率 0.9 は10回のうち9回はある事象が起こると信じて良いことを意味し,0.001は1000回中1回しかそのチャンスがないことを意味する.同じことであるが,確率は0パーセント(起こりえない)から100パーセント(確実に起こる)まで値をとる,パーセント表記でも表されうる.不確実性はまた分(ぶ)としても表されうる.ある事象に対する確率が0.8であるということは,その事象は8対2(または4対1)で起こるということを示すものである.

[9-23]

ある事象の確率を見積もる一つの方法は,過去の事象を考えることである.現在の状況が過去の状況に良く似ているのであれば,何かしら似たような結果に落ち着くことが期待できる.例えば,昨年の夏の日の10パーセントで雨が降ったのならば,今年の夏もおよそ10パーセントの日で雨が降ると予想しても良いかもしれない.それゆえ,ある決められた夏の日の降水確率は0.1であると見積もるのは理にかなっているし,その日になって曇の天気であるのなら,降水確率を0.1から0.4へと上方修正しても良いかもしれない.対象となる状況が我々が持っているデータに多くの形で似ていれば似ているほど,見積もりはどんどん良くなるのである.

[9-24]

確率を推定する別の方法は、特定の出来事の、起こる可能性のある他の結果を考えることである。例えば、ルーレット盤に等しい幅を持つ38のスロットがあるならば、我々はボールが1/38の確率でそれぞれのスロットに落ちることを期待できる。このような理論的確率の推定は、すべての起こりうる結果が考慮されており、すべての可能性が等しく起こりうるという仮定に基づいている。しかしこの仮定が正しくなければ――例えばスロットのサイズが等しくなかったり、ボールがルーレット盤から飛び出したりするならば――計算された確率は間違っている。

[9-25]

確率は、多くの出来事における結果の割合を予測する際に最も役に立つ。コインを弾いて表が出る可能性は50%である。しかし、人は通常、偶数回のコイントスで正確に50%の表を得ることは出来ないだろう。より多くのコイントスを繰り返すほど、正確に50%を示すことはありえないものの、表が出る確率は、理論値である50%により近づいていくだろう。同様に、保険会社は通常、特定の年に死ぬ20歳の人間の確率を、1〜2パーセント以内の精度で予測することが出来る。しかし保険会社は何千もの総死者数からこの予測を得ているのであって、特定の20才の人間が死ぬかどうかを予測する能力はまったく持っていない。また別の文脈では、確率と実際の計測数を区別することが重要である。膨大な数の似たような事象が起きているときには、ほとんど起きる可能性がない結果が起きることもしばしば起こりうる。例えば99%の精度で正しい結果を示す医療検査は、非常に正確なように見えるかもしれない。しかしこのテストが100万人に対して行われたならば、およそ1万人の人は間違った結果を受け取ることになるだろう。 TOP

[9-26]

データの集約

私たちの回りは情報で溢れている。多くの場合、その中には、私たちには理解できないようなものが大量に含まれている。データの集まりというのは情 報の重要な側面が見え隠れする可能性のあるいつくかの集約した性質で表現できる。統計学は大量のデータを整理し、解析するための有用な方法が日夜開発され ている数学の一つの分野である。例えば、データの集まりからどのようなことが考えられるのかを調べるために、数直線上にそれぞれの場合分け(数と対応)し た点をプロットすることができる。そして次に、同じような点がどれくらいあるのか?、点と点の間隔はどれくらい離れているのか?や一番高い点や一番低い 点はどれか?などプロットをじっくりと調べることができる。その代わりに、データの集まりの中央はどこにあるのか?やその中央に対してどれくらいのばら つきがあるのか?を記述することによって、データの集まりを集約したある性質を浮かび上がらせることができるのである。

[9-27]

データの分布を集約するために、最もよく使う統計的手法は(集団)平均あるいは、ただ単に平均である。しかし、平均を使って何かを解釈するときは注意しなければならない。データが連続的ではない、離散的な値の場合(例えば、1家族あたりの子供の数)、平均は現実的な値をとらないかもしれない(例えば、子供の数の平均は2,2人なんてありえない)。データが通常とはかけ離れた値に強く引っ張られる場合、平均は予測どおりの値には近づかないかもしれない。例えば、少数のお金持ちが個人所得の平均値をぐっと押し上げるようなことが考えられる。データの値を上半分と下半分に分断させるメディアン(median)という手法は多くの目的において平均を使うよりも効果的な場合がある。データがわずかの離散的な値で表現できるなら、最も情報を的確に表現している平均にモード(mode)が当てはまるのかもしれない。モードは、最もありふれた単一の値である。例えば、アメリカの家庭で車を所有している台数のモードは1である。

[9-28]

より一般的に言えば、平均はデータのばらつき(範囲)を隠蔽してしまうので、本当はそこに存在しているはずの法則が平均によって目隠しされてしまうかもしれない。例えば、水星の平均温度はおよそ華氏15度であるというのは聞こえはいいのだけれど、それが、上限値が華氏300度で下限値が華氏マイナス300度の間で振れる値だと知っていたら、どうだろうか。ばらつきを考慮しないで、平均を比較するときは誤解を招く恐れがある。例えば、男性の平均身長は女性の平均身長よりも明らかに高いという事実が”男性は女性よりも背が高い”とただ単に報告されたらどうだろうか。一方で、男性より女性の方が背が高い場合もあるだろうという反論は想像に難くないだろう。それゆえ、平均を解釈するために、グループ内のばらつきについての情報、例えば、データの値のとりうるすべての範囲や中央値からデータの値の50%がそこに含まれている範囲などの情報が重要になる。数直線に沿って、すべてのデータの値をプロットすることによって、データがどの程度の拡がりをもっているのかが分かる。

[9-29]

重要な情報が欠如しているにもかかわらず、二つの変数間の関係を示そうとして集約したデータの結果を公表してしまうことがよくある。例えば、”異なる信教を持つ夫婦の50%以上は離婚する”という主張は”同じ信教を持つ夫婦での離婚率はどれくらいか”というのを知っていないことには何も語ってはくれない。これら二つの離婚率を比べないことには信教と離婚の本当の関係を知ることはできないだろう。その時でさえ、標本を選んだときに起こりうる傾向や偶然による誤差などにも注意が必要である。故に、そのような情報に関するレポートを優れたものにしたいなら、その傾向の可能性についての説明や比べるときの統計的な曖昧さについての検討などを明記すべきである。

[9-30]

もし、一方の量が大きくなり、他方の量もそれに伴って大きくなれば、2つの量の間には正の相関があると言える。(逆に、他方の量が小さくなれば、負の相関があると言える)。しかし、2つの量の間に強い相関があるということは必ずしもこれらの間に因果関係があるということを意味しない。それらは果因関係かもしれないし、第3の要因が関係して、それらの相関が生じているのかもしれない。例えば、人の平均寿命は1世帯あたりの通信手段の数の平均と正に相関しているとする。通信手段の多さがどのように人の健康の改善に役立っているのか、あるいはなぜ、健康的な人ほど、通信手段を多く持てるのかなどの説明が必要になるだろう。しかし、健康も通信手段の数も人が生活を営むその社会の一般的な豊さの結果であると考えられなくもない(むしろ、こっちの方が妥当である)。なぜなら、社会の一般的な豊さというのは人が栄養価のある食生活が送れているのかや十分な医療保護は受けられているのかという社会の豊さの総合指数?みないなものに影響しているからだ。それと同様に、通信手段の多さが社会の豊かさに影響するなら、人がそれを購買する傾向にあっても何ら不思議ではないからだ。 TOP

[9-31]

標本採集

私たちが世界について学習しているものの多くは私たちが研究している対象の標本(samples)に基づいた情報から得られいる。つまり、地層や星の光やテレビの視聴者やガン患者やクジラや数字の標本(samples)である。標本(samples)というのはだた多くなれば、すべてを説明するのに不可能かつ不実用で多大なコストを発生してしまう恐れがあるが、(適切な)標本(a sample)というのは本来、多くの目的において有効である。

[9-32]

何らかの標本からすべての事柄について結論を導こうとする時に、2つの重要な関心事が説明されなければならない。まず、第一に、標本の集め方によって生じる傾向の可能性に注意しなければならない。標本を集める時の傾向の生じやすさにはいつくかの共通点を含んでいる。それらは、 @簡便性 (友人だけにインタビューすることや地表面にある石だけを拾うこと) A自己選択性 (ボランティアをしている人やアンケートに答えた人だけを研究の対象にすること) B遇奇とか遇有性(たまたま学校にいた学生(その学校の学生がどうか不明)のみやセラピーのコースを熱心に聴いている杖を持った患者のみを対象にすること。というかこれらを標本に含めてしまうという誤り) C故意性(自分の思いこみを支援するデータのみを使用すること) などである。

[9-33]

二番目に重要なことは標本を(最大限に)活かすも殺すもその大きさで決まるということだ。仮に、全く傾向が生じないある特定の方法で標本を採取するならば、標本が大きければ大きいほど、全てのことをより正確に表現できるようになる。なぜなら、標本が大きければ大きいほど、真にでたらめなばらつきによる効果は小さくなり、その(効果が生み出す)特性上に集約されるようになるからだ。標本の大きさが増加すればするほど、誤った結論を導く機会は減少させられる。例えば、でたらめに標本を選んだとする。1,000の標本中600の標本から発見したある特徴は10の標本中6の標本から発見した特徴よりも選んできた集団の大まかな特徴をより強く証拠づけるものになる(あるいは、それが10の標本中9の標本から発見した特徴だとしてもだ)。一方で、標本を選んできた全集団の実際の大きさというのは標本から得られた結果の正確性にほとんど影響しない。でたらめに選んだ1,000の標本は標本数10,000の集団から選んでいようと、あるいは標本数100,000,000(1億)の似たような集団から選んだとしてもおよそ同じ誤差を含んでいるだろうから。 TOP

 

[9-34]

推論

推論は明確な論理のルールという側面を持つが,単に指針であったり,またさらに創造性に対する限りない可能性でもある(そしてもちろん,誤りも含みうる).確信を伴った議論を成立させるためには,言述(同士)が正しいこととそれらが正しくつながっていることが必要である.しかし,正式には論理においては,言述同士のつながり自体が正しければそれでよく,言述自体が実際に真であるかは関係ない.「すべての鳥は飛び,かつペンギンは鳥である.このとき,ペンギンは飛ぶ」という議論は論理的には正しい,しかし,結論は前提仮定が真でない限り真ではない:すべての鳥は本当に飛ぶのか?またペンギンは本当に鳥であるのか?仮定の正しさを確かめることは,論理演算が正しく働いていることと同様,良い推論を行う上で重要である.この場合,論理は正しいが結論は誤っている(ペンギンは飛べない)ため,前提仮定の一方,もしくは両方が偽でないといけないこととなる(すべての鳥が必ずしも飛ぶわけではない,または/かつ,ペンギンは鳥ではない).

[9-35]

非常に複雑な論理的な議論も,ほんの数段階の論理ステップから成り立っていることがある.そのステップは,基本的な語「もしも」「かつ」「または」そして「でない」の正確な使用によっている.例えば医療診断は次のような論理条件分岐からなる:「患者に症状Xまたは症状Yがあり,また検査結果Bであるが,Cを履歴として持っていない場合,彼/彼女には処置Dを施すべきである.」そのような論理的問題を解くためには,多くの専門的な関連知識,関連する多くのデータへのアクセス,また論理演算の分岐における演繹技術が必要となる.コンピュータは非常にたくさんの関係やデータを格納,取得でき,また直ちに長い論理ステップを踏むことができるため,専門家が,コンピュータなしでは解くのが非常に難しい,もしくは不可能でさえあるような複雑な問題を解くのをどんどん助けるようになりつつある.しかしながら,すべての論理的な問題がコンピュータを介して解くことができるわけではない.

[9-36]

論理は容易に歪曲されうる.たとえば,「すべての鳥は飛ぶことができる」という命題は「飛ぶことができる生物はすべて鳥である」ということを論理的に含意するものではない.この単純な例で見て明らかなように,歪曲はしばしば起こるが,感情が絡むようなシチュエーションでは特にそうである.例えば以下のようなものである:すべての有罪である囚人は,自らに不利な証言をすることを拒否する.囚人スミスは自己に不利な証言をすることを拒否している,したがって囚人スミスは有罪である.

[9-37]

論理における歪曲はしばしば必要条件と十分条件の取り違えに起因する.ある結論に対する必要条件はその成立のためには成り立っていなければならないがそれだけで良いわけではない.― たとえば,合衆国市民であることは大統領として選ばれるための必要ではあるが,十分ではない.ある結論に対する十分条件はそれだけ成立しているだけでよいが,しかし同じ結論に達するのに別の方法があるかもしれない.― 州宝くじを当てることは金持ちとなるために十分ではあるが,金持ちになるにはほかの方法もある.しかし,ある条件は必要十分であるかもしれない.たとえば,選挙で過半数を得ることは,大統領となるための必要かつ十分な条件である.というのは,それが唯一の方法であるからである.

[9-38]

論理は,問題に対する解発見において限られた有益さしか持たない.抽象モデルの外側では,しばしば,前提条件またはそれらをつなぐ論理を自信を持って正しいものとすることができない.正確な論理のためには「もしXが真であるならば,そのときYもまた真である(もしある犬がよく吠えるならば,その犬は咬まない)」かつ「Xは真である(ブチは吠える)」といった宣言ができなければならない.しかし,典型的には,われわれが知っているのは「もしXが真であるならば,そのときYもしばしば真となる(ある犬がよく吠えるならば,その犬はたいてい咬まない)」と「Xがおおよそ長い間,真である(ブチは普通よく吠える)」くらいである.それゆえ普通,厳密な論理は確率や確からしさの落ちる他の推論に置き換えざるを得ない.例えば,平均的に,今朝の天気と同じような日の70パーセントでは夕方前に雨が降る,といった主張にである.

[9-39]

論理演繹を一般的な法則(すべての羽毛の生えた生物は飛ぶ)にあてはめると,特殊な例もしくは特殊な例のクラスに関する結論を得ることができてしまう(ペンギンは飛ぶ).しかし,一般法則はどこから来るのだろうか.通常,一般化というものは観察から得られる―たくさんの類似例を見,その例に関して真に成り立つものがその分類すべてについて真に成り立つのかと問うてみる(「私が見た羽毛の生えた生物はどれも飛ぶことができる,したがっておそらくすべての羽毛の生えた生物は飛ぶことができるであろう」)―ことによる.もしくは一般法則は,再現不能な形で,想像から飛び出るものでもありうる.現象に関するいくつかの事象が論理的にその一般法則に従い観測されているという希望に基づきなされるものである.(例:「仮に太陽が地球を含むすべての惑星の運動の中心にあるのが正しいとするとどうなるか.そのような系で,今の空における見た目上の動きを説明できるか」)

[9-40]

どのような手段によってであれひとたび一般法則が仮説化すると,その正当性の検証に論理が貢献する.もし反例が見つかれば(羽毛の生えた生物で飛ばないものがいる),仮説は偽である.もう一方で,あるクラスに関する一般仮説が真であることを論理的に示すにはそのクラスのあらゆる例(すべての鳥)を調べるしか方法はないが,これは現実には難しく,というより時には原理的にも不可能である.よって,普通,一般仮説が論理的に偽であることを示す方が真であることを示すよりズット容易である.今日ではコンピュータにより,正しいかどうかわからない数学的な一般法則が確かに正しいものであることを証明する,もしく証明しないまでも,膨大な数の特定の例についてチェックすることにより,正しさを目で確かめることが可能となるようになっているものもある.

[9-41]

科学において現象に関する一般原理が仮説化されたならば,演繹論理を用いることができるが,しかし論理がそのような一般仮説を導くことはできない.通常,科学における原理は限られた数の実験からの一般化により得られるものである―たとえば,観察したところすべての羽毛の生えた生物が卵から孵るならば,おそらくすべての羽毛の生えた生物に関しても同様であろう,というものである.これは観察例が非常に少ない場合でも非常に重要な類の推論である(たとえば,一回火で火傷を市さえすれば,一生火に注意深くなるものである).しかしまた,人間のものごとを一般化したがる傾向は,人間を誤った方向へと導かれることもありうる.「鏡を割ったらその日は病気になる」というのは,人を一生鏡を割るのを恐れさせるのに十分である*1.より知的なレベルでも,ある新薬を服用後に同じ症状から回復した数名の患者を見ることは,たとえその回復が偶然であったとしても,医者に,すべての同様の患者がその新薬を服用すれば回復する,と一般化して思い込ませてしまいうるものである.

[9-42]

人間の一般化の志向性は微妙な側面を持っている.一旦形成されてしまうと,一般性は人間の認知*1や出来事の解釈に影響を及ぼす傾向にある.例えば,件の薬がとある症状のある患者すべてに聞くという一般化をしてしまうと,医者は患者の症状をその薬を飲んだ後では,回復が疑わしいにもかかわらず回復したものとしてみてしまいがちになるかもしれない.研究においてはそのような偏向をさけるため,科学者は通常「目隠し」手続きをとる.それは,結果を観察または解釈する人間が,条件をコントロールする人間とは異なる(上の例では,患者の症状を判断する医者は,患者がどのような処置を受けたかを知らない)というものである.

[9-43]

推論の大部分,そしておそらくほとんどの創造的な思考は論理だけでなく類推にも拠っている.我々はある状況が他の状況に何らかの形で似ているとき,他の形でも似ていると信じることがある.例えば,光が光源から広がる様は,水波が外乱から広がる様のようであり,おそらく光は水波と異なった形ではあるが似たような形で振る舞う.水波においては波が交差する形で,光においては光が交差する形で干渉パターンを作っている.また,太陽は熱と光を作るという点で火と似ており,それはまた燃料を燃やすのも同様である(実際のところ,それは異なる).重要な点は,類推による推論は結論を提案するものではあるが,それが真であることを証明するものにはなりえないということである. TOP

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