2008年03月09日

第10章: 歴史的観点

この章の翻訳を担当したのは、Yamanakaさん、Kumicitさん、optical_frogさんです。

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忘却からの帰還: Science For All American -- Chap. 10 HISTORICAL PERSPECTIVES [42..48]
Chapter 10: HISTORICAL PERSPECTIVES:[10-49]〜[10-50] - left over junk
Chapter 10: HISTORICAL PERSPECTIVES:[10-51]〜[10-53] - left over junk
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第10章: 第10章: 歴史的観点

宇宙の中心でなくなる地球

天上と地上との統合

物質とエネルギー、時間と空間の関連性

広がる時間

移動する大陸

火についての理解

原子を分割する

生命の多様性を説明する

病原菌の発見

動力の活用


[10-1]

第10章: 歴史的観点

この勧告に歴史についての内容を含めることには、主に二つの理由がある。一つには、どのようにして科学的な事業(enterprise)を運営するかということについて、具体的な事例なしに一般化しても、中身が伴わないものになりかねないからである。例えば、新しいアイディアはそれが考え出された流れの中に限定される、という主張について考えてほしい。そのような新しい idea は、しばしば科学的成果によって破棄されることもあるし、時として予期せね発見によって急激に成長することもあるし、そして通常は、多数の研究者の寄与によりゆっくりと成長してゆく。歴史的な事例なしには、このような一般化は単なるスローガンになってしまうだろう、それは覚えやすいものかもしれないが。それを避けるためにもいくつかのエピソードが選ばれてもよいだろう。

[10-2]

二つ目には、科学の営みの歴史におけるエピソードのいくつかは、我々の文化的伝統にとって非常に重要なものだからである。そのようなエピソードはもちろん、宇宙における我々の場所についての我々の理解を変えたガリレオの役割、天体の運動と地球上の物体の運動とに同じ法則が適用されることについてのニュートンによる実証、生物の種が生じる仕組みについての仮説を導くことになる種の多様性と相関に関するダーウィンの長きにわたる観察、大地の信じ難い年齢についてのライエルによる丹念な傍証、顕微鏡でなければ見ることのできない極小さな生物によって伝染病に感染することについてのパスツールによる検証、などである。これらの話はそれぞれが、西欧文明において為されてきたあらゆる考察の展開の中でのマイルストーンとなっている。

[10-3]

自然についての研究は、人類のあらゆる文化に含まれてきた。天体の運動について、動物の生態について、物質の性質について、植物の薬効について。この章の勧告では西欧文明における科学、数学、技術の発展に焦点を当てる。だがその発展において、それ以前のエジプトや中国、ギリシアやアラビアの文化からどのようにアイディアを引き出してきたか、については脇へ置くこととする。当報告書で取り上げるのは、ここ500年に渡ってヨーロッパで伝統的に発展してきた、そして今日ではあらゆる文化的背景を持った人々の寄与により受け継がれている、物事の考え方についての様式の一部としての科学である。

[10-4]

ここでは、科学的知見の発展とその影響の例となる、10の重要な発見や変化に重点を置く。すなわち、地動説[1]、万有引力の法則、相対性理論、地質時代、プレートテクトニクス理論、質量保存の法則[2]、放射能と核分裂、種の進化、病気の原因の追求[3]、産業革命、である。同じように他の事例を選ぶこともできるかもしれないが、この10の事例は明らかに、歴史上の良い事例であり、また文化的に傑出した重要な事例であり、我々に必要な二つの要件を満たしている。TOP

 

[10-5]

宇宙の中心でなくなる地球

地球上の観察者にとって、大地は、つまり地球はじっと動かずにそこに在り、他の全ての物がその周りを動いているように見える。であるから、宇宙がどのように動いているかを想像する際に、このような明らかなあたりまえの現実から出発することは、古代の人々にとっては理に適っていることであった。古代ギリシアの思索者達、特にアリストテレスは、およそ2000年に渡って保たれることになるモデルを提示した。それは、巨大で静止した地球が宇宙の中心にあり、太陽も月も他の小さな星々も、地球の周りで一定の速度で真円を描いて動いているというものであった。西暦に入って少し後、この初歩的な考え方はエジプトの天文学者、プトレマイオスによって、強力な数学的モデルへと変換された。真円運動に基づく彼のモデルは、太陽や月や星々の位置を予想するのに大きく貢献した。彼のモデルは、明らかに不規則な運動を示すいくつかの天体の運動についても考慮していた。少数の「さまよえる星々」――つまりは惑星のことだが――は、地球の周りで真円を描かないばかりか、動く速さを変えたり、時として奇妙に輪と輪が繋った経路をたどるように逆行することさえあった。このふるまいはプトレマイオスのモデルにおいては、主となる円に繋げる形でいくつもの円を加えることによって説明されていた。

[10-6]

その後何世紀にも渡って、天体に関するデータが蓄積されより正確なものになるにつれて、このモデルは多くの天文学者によって改良されまた複雑なものへとなっていった。これらはアラビア人の天文学者によってもヨーロッパ人の天文学者によっても行なわれた。真円モデルの改良は巧妙であった一方で、天体がそのように動くことの物理的な説明については全く伴っていなかった。天上での運動の原理は、地球上の運動の原理とは全く異なっていると考えられていた。

[10-7]

アメリカの発見の少し後、マルチン・ルターやレオナルド・ダ・ヴィンチと同時代の人、ポーランドの天文学者ニコラウス・コペルニクスが宇宙についての別のモデルを提案した。彼は、静止した地球という前提を捨て、もし地球も他も惑星も皆が太陽の周りに円を描いていれば、観察されている惑星の不規則な運動は皆同様に、しかも理論的にすっきりした形で説明できることを示した。しかしコペルニクスのモデルはまだ真円運動を用いており、また、それまでの地球を中心としたモデルとほとんど同じくらい複雑であった。さらに彼のモデルは、当時支配的だった、世界についての常識的な考え方に背いていた。コペルニクスのモデルでは、見た目では明らかに静止しているはずの地球は一日ごとにその軸を中心に完全に一回転し、宇宙は想像が及ばない程に遠く大きくなり、またなによりも、地球は宇宙の中心であったその位置付けを失ってごく普通のありふれた場所になる必要があった。さらには、軌道を描いて運動しまた自転もする地球の姿は、聖書の中のいくつかの記述にも合致しないと考えられた。ほとんどの学者は、太陽中心モデルにはそれほど長所がなく、また、伝統的な地球中心モデルに関連した他のいくつもの考えや観念を捨て去ることはあまりにも大きな代償であると認識していた。

[10-8]

さらなる正確さを目指して天文観測が続くにつれ、全ての天体がそれぞれ一定の円運動を行なわなければならないとすると、実のところ太陽中心システムも地球中心システムもどちらもがうまく機能しないということが明らかになった。ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラーは、ガリレオと同時期の人物だが、惑星の運動についての数学的モデルを開発した。彼のモデルでは昔から尊重されてきた前提、静止した地球と円運動、のどちらをも捨てていた。彼は三つの基本的な法則を主張した。中でも最も革命的なのは、惑星がごく自然と、楕円軌道上を、予測可能ではあるが一定ではない速さで動くとしたことである。この法則は正しいものとなるのだが、当時の数学では楕円についての計算は困難であり、ケプラーはなぜ惑星がそのように動くのかという説明については示すことができなかった。

[10-9]

シェークスピアやルーベンスと同時代の人物、イタリアの科学者ガリレオの多大な貢献は、物理学と天文学の発展において極めて重要であった。天文学者としては、彼は、太陽や月や惑星、そして他の星々について調べるために新しく発明した望遠鏡を制作して用い、惑星の運動についてコペルニクスの基本的な考え(idea)を補強する数々の発見を為した。恐らく最も重大なのは、木星を周る軌道を持つ四つの月の発見であった。というのも、この発見は地球が天上での運動における唯一の中心ではないことを明らかにするものだからである。この望遠鏡によって、彼はまた、地球上で生活する人々にとっては明示的でない物をいくつも発見している。月のクレーターや山々、太陽の黒点、金星の満ち欠け、そして裸眼では見ることのできない膨大な数の星々である。

[10-10]

宇宙の理論の転換に対してのガリレオの別の偉大な貢献は、自らの成果を公表したことである。彼は彼による新たな描像を、当時の教養人達が皆読むことのできる形式と言語(イタリア語)で発表した。また、アリストテレス的な天体運行の考え方に反することになる公転し自転する地球という描像に対しては多くの有名な論争が発生したが、彼はこれに反論を加えもした。プトレマイオスのモデルを未だに信じていた聖職者達からの批判は、そしてその後に続いた異端信仰者として申し立てられた彼に対する宗教裁判での公判は、この問題への注目をより強めただけであり、それによって、常識を形成している、一般に受け入れられる考え(idea)が変わっていく過程を速めることとなった。またこのことは、科学者が新しい考えや概念(idea)を急進的に持ち出す際にはいつでも起きるに違いない、ある種の不可避な緊張を顕に示した。 TOP

 

[10-11]

天上と地上との統合

しかし、それら個々の新しい考え方を一つにより合わせ、またそれらを越えて新しい宇宙像(idea)を作り上げる仕事は、イギリスの科学者アイザック・ニュートンへと残された。彼の「自然哲学の数学原理(プリンピキア)」は17世紀の終わり近くに出版され、これは史上最も影響力のある著作の一つとなるのであるが、彼はこの中で、地球上の物体の運動についての知見と、それとはかけ離れていると見なされていた天上の物体の運動についての知見とを一つにまとめる、一貫した数学的な見方を提示した。

[10-12]

ニュートンの説による世界は、驚くほど単純なものであった。鍵となる少数の概念(質量、運動量、加速度、力)、三つの運動法則(慣性の法則、加速度の力と質量に対する依存性、作用反作用の法則)、そして質量を持ったありとあらゆる物体の間で重力が距離に依存してどれだけ働くかを表す数式としての法則、これらを用いてニュートンは、地球上の運動と天上の運動について厳密な説明を与えることを可能にした。この一セットの考え方(idea)によって、ニュートンは、観測されている惑星と月の軌道、彗星の運動、月の不規則な運動、地球表面で落下する物体の運動、重さについて、海の潮汐、そして地球が赤道付近ではわずかに膨らみを持っていることについて、これら全てを説明することを可能にした。ニュートンは地球の位置付けを理解の及ぶ宇宙の一部にし、また宇宙を、その簡潔さにおいては洗練されその構造においては壮大な、すなわち宇宙はその部分と部分の間に働く力の作用に従って自律的に姿を変えてゆくものとしたのであった。

[10-13]

ニュートンのシステムは、世界の科学的かつ哲学的な見方として200年に渡って広く普及した。ニュートンのシステムは早くから受け入れられていったが、この受容は、エドモンド・ハレーの予想が実証されたことによってめざましく確実なものとなった。ハレーは、ある特定の彗星が、ニュートンの原理によって計算されたある特定の日に再び現れることを何年も前に予想したのである。ニュートンのシステムに対する確信は、科学において、また実用上の努力において、それはまさに20世紀の宇宙探査に至るまで(宇宙探査に至っても)、その有用性によって一貫して強められていった。アルベルト・アインシュタインの相対性理論も――これもその正しさにおいて革命的だが――ニュートンの世界観を投げ捨てたのではなく、最も基礎的な概念のいくつかを修正したものである。

[10-14]

ニュートンによって行なわれた科学研究は大成功を収め、その影響は物理学と天文学を遥かに越えて広がっていった。物理学上の諸原理と、それらを組み合わせてさらなる結論を導き出すニュートンの数学的手法は、他の全ての科学のための手本となった。自然界のありとあらゆるものはやがては物理学と数学の形で説明できるようになるだろうと、そしてそれゆえに自然は神の助けや配慮を必要とせずに、それ自体によって成り立っていくことができるものだ、という確信が育っていった。もっともニュートン自身は彼の物理学については、この宇宙で、この世界で、神の手が働いていることを示すものだとみなしていたのだが。社会思想家は、ニュートンの考え方による太陽系のような形に政府を設計できないだろうかと、つまり通常の業務と長期的な安定性を保証するように力と作用のバランスを保つような形に政府を設計できないだろうかと検討を重ねた。

[10-15]

科学の内においても外においても、哲学者達は、もし全てが、星々から原子に至るまでが、機械的に成り立つ正確な法則に従って動いているのであれば、人間の自由意志というものは幻想でしかないかもしれないということになるのではないか、という推論に悩まされた。人類の歴史全ては、個人の思索から社会の激変に至るまで、完全に決定されている一連の事態が次々と続いていっているだけなのだろうか? 社会思想家(social thinker)は、自由意志と社会システムの組織についての問題を提起し、これらは18世紀と19世紀において広く議論された。20世紀に入ると原子の振舞いについての根本的な予知不可能性が姿を現し、これらの懸念をいくらか取り払った――もっともまた新たな哲学的問題が持ち上がりはしたが。TOP

 

[10-16]

物質とエネルギー、時間と空間の関連性

ニュートンの世界観は20世紀に入ってもそれまでと同じように練り上げられ成功を収めたものであり続けたが、20世紀の初めあたりでついに、根本的な修正を施されなければならなくなった。当時まだ20代でしかなかったドイツ生まれのアルベルト・アインシュタインは、自然の理解に対して革命的な寄与を為す理論的考察(idea)をいくつも発表した。そのうちの一つが特殊相対性理論であり、この中でアインシュタインは、空間と時間とは、ニュートンが考えたように完全に異なった次元なのではなく、むしろ密接に結びつけられた次元なのだと考えた。

[10-17]

相対性理論は、いくつかの驚くべき内容を含んでいた。そのうちの一つは、光の速さがあらゆる観測者によって同じ値に観測される、ということ、つまり、観測者や光源がどのように動いていたかということは全く問題でないというのである。このようなことは他の物体の運動においては正しくない、それら物体の観測される速さは観測者の動き方に常に依存するものである。さらには、真空中の光の速さは実現可能な最大の速さであり、他の何物もその速さまで加速することはできないし、上回る速さで動いていることを観測されることもない、というのである。

[10-18]

特殊相対性理論の最も良く知られた側面は、質量とエネルギーの等価性を主張していることである。つまり、エネルギーはいかなる形態であっても質量を有し、物質それ自体がエネルギーの一形態であるといういうことである。このことは有名な方程式、E=mc2 によって書き表される。ここで E はエネルギーを、m は質量を、c は光の速さを表す。c はおよそ秒速 186,000 マイルであり、ほんのわずかな質量からの変換でさえ、膨大な量のエネルギーを放出することになる。これは、原子炉にて熱エネルギーを生み出している核分裂反応で起こっていることであり、また、太陽が放出するエネルギーを生み出している核融合反応でも起こっていることである。

およそ10年後、アインシュタインは、彼の業績の中でも最高の成果であると、また同時に、歴史上人類の知性が到達した最も深淵な成果の一つであるとみなされるものを発表した。これが一般相対性理論である。この理論は重力と時空の関係について扱っており、ここではニュートン的な重力は時空の形状の歪みとして解釈される。相対性理論は、理論に基づいて得られる予想を確認することによって何度も何度も繰り返し検証されてきており、そして予想がはずれたことは一度もない。宇宙の構造についてのより強力な理論に取って代わられたこともない。しかし多くの物理学者達は未だに、より完全な理論を、一般相対性理論を原子の振舞いについての量子論へと結び付けるであろう理論を、創り出すための方法を探し続けている。 TOP

 

[10-20]

広がる時間

地球の年齢については、人類の歴史の中でほとんどの間、問題にはなっていなかった。19世紀までは、西欧文化の中ではほとんど全ての人が、地球は誕生してからほんの数千年しか経っておらず、地球の表面の様相は固定され、つまり山も谷も海も川もそれらが瞬時に創られてから常にそのままであり続けてきた、と信じていた。

[10-21]

時として、個人としては、その経過を観察できるようななんらかのゆっくりとした変化の過程によって地球の表面が形作られてきた可能性について思いを巡らす人もいた。そしてその場合には、地球はほとんどの人が信じていたよりも年齢を重ねていなければならないかもしれない。もしも谷が川による浸食から形成されたのであれば、また層状の岩が浸食によってもたらされた土や砂の堆積の積み重なりから生じたのであれば、今日の地形が生み出されるためには何百万年もの年月が必要だったと見積もられることもあり得るだろう。しかしこの議論は、本当にゆっくりと、徐々に徐々にとしか進展しなかった、19世紀の初めにイギリスの地質学者チャールズ・ライエルが彼の大著「地質学原理」の初版を出版するまで。ライエルの本の成功は、山々における岩石の層のパターンについてと多様な化石が見出される場所についての豊富な観察、またそれらデータから意味を引き出すにあたって彼が用いた綿密な論証とに立脚していた。

[10-22]

「地質学原理」は幾度も版を重ね、ライエルの哲学を受け入れ彼の調査と論証の方法に順応することになる何世代もの地質学の学生達によって学ばれていった。さらには、ライエルの本はチャールズ・ダーウィンにも影響を与えた。ダーウィンは種の多様性を調べながらの世界中を巡る航海の間にこの本を読んだのである。ダーウィンは生物の進化についての概念を展開させていきながら、地球の年齢についてライエルが示した根拠と、大量の証拠によって推論を支えていくライエル流の手法とになじんでいった。

[10-23]

科学においてはしばしば起こるように、世界についての考えをとても広く切り開いたライエルによる革命的な新しい見方は、同時に、彼自身の思考を制限することになった。ライエルは、地球が急激な過程によって変化することは決してないと考えられるようなとてもゆっくりとした変化、という考えをとっていた。実際、地球の一般的な様相においては、急激に大きく変化することは本当に全くない、特に小規模な変化が似たように続いていくサイクルの中では。しかし新たな証拠が蓄積され続け、20世紀半ばまでに地質学者達は、そのような変化の少ないサイクルは、急な変化、もしくは地殻の激変すら含んで、新しい状態に向けての長期的な展開を内包する、複雑な過程のほんの一部でしかないのだ、と信じるようになった。 TOP

[10-24]

 

移動する大陸

ほぼ正確な世界地図が明らかになり始めるのとほぼ時を同じくして、幾人かの人々は、アフリカ大陸と南アメリカ大陸とが、まるで巨大なジグソーパズルのように、互いにぴったりとくっつき合えるかのように見えることに気がついた。二つの大陸がかつて一つの巨大な陸地の一部であって、それが部分部分とに分かれて離れ離れになっていったものだということがあり得るのだろうか? この着想(idea)は繰り返し示唆されたが、証拠が無いことによってその度に棄却された。大陸と海洋の大きさや質量や固さ、そして陸も海も明らかに動いていないことから見れば、そのような考えは空想だと思われたのである。

[10-25]

しかし20世紀の初めに、ドイツの科学者アルフレッド・ウェゲナーによって、この考え(idea)は再び持ち出された、新たな証拠と共に。まず、大陸同士の海面下での輪郭は、陸地の輪郭よりもなお互いに一致している。また、一方の大陸の沿岸部に存在する植物、動物、そして見出される化石は、他方の対応する大陸の面している沿岸部におけるそれらと類似している。そして最も重要なことには、観測の結果、グリーンランドとヨーロッパとがゆっくりと動いて離れていっていることが示されたのである。それでもまだ、この考え(idea)はほとんど受け入れられなかった(そして強い反対に遭っていた)、新しい観測技術と機器の発達によってより一層の証拠が蓄積されるまで。大陸棚や海底の様相のさらなる符合は、大西洋の海底の構成と形状の調査、大陸とプレートについての放射年代測定、そして大陸棚から丹念に採取された岩石や断層についての調査によって、見出されていった。

[10-26]

1960年代までには、大量で多様なデータが、地殻は大陸や海底を乗せてゆっくりと動いているいくつかの巨大なプレートで構成されているという考え(idea)と、全て整合することとなった。克服すべきだった最も困難な論点、地球の表面は大陸が移動するには固すぎる、という主張は誤りだったことが明らかになった。地球の熱い内部はプレートの下で溶融した岩の層を生み出し、プレートはこの溶融層に生じている対流運動によって移動しているのである。1960年代に、プレートテクトニクス理論という形での大陸の移動は科学界で広く受け入れられ、地質学に強力で一本化された概念を提供することとなった。

[10-27]

プレートテクトニクス理論がついに受け入れられたのは、この理論が証拠によって補強され、過去にはあいまいであったり議論の的となっていたりしたとても多くの事柄を説明したからである。地震、火山、山系や海洋の形成、太平洋の収縮と大西洋の拡大、そして地球の気候の大きな変化でさえ、これら多様で一見無関係な現象は、今や地殻プレートの移動の結果として理解することができるのである。 TOP

[10-28]

 

火についての理解

人類の歴史の中でほとんどの期間、火は四つの基本的元素(element)の一つだと考えられてきた。他の三つは、土、水、空気、であり、万物はこれら四つの元素によって構成されていると考えられていた。燃えている物(material)は、もともと内に持っていた火を放出しているのだと考えられていた。18世紀まで、広く認められていた科学理論は、物体(object)が燃える時には物質(substance)を放出しておりそれによって質量が運び去られる、というものだった。この見方は観察結果によって認められていた、実際、重い木の断片が燃えた後には、残されるのは軽い灰のみであったのだから。

[10-29]

アントワーヌ・ラヴォアジエはフランスの科学者であり、アメリカ独立革命からその後フランス革命の犠牲者として彼が処刑されるまでの20年間に、その発見のほとんどを為した。彼は一連の実験を行ない、その中で、燃焼に関わる物質(substance)を全て正確に測定した。燃える際に使われた気体やその結果放出された気体も含めてである。彼の測定結果は、燃焼過程は人々が考えていたのと全く反対であったことを示した。彼は、物質(substance)が燃える時には重さは正味では増加も減少もしない、ということを示したのである。例えば、木が燃える時には木の中に存在していた炭素と水素が空気中の酸素と結び付いて水蒸気と二酸化炭素を形成し、このどちらも空気中に放出されて目に見えない気体であった。燃えたことによって生じた物(material)(気体と灰)の合計の重さは、そこで反応した物(material)(木と酸素)の合計の重さと全く同じなのである。

[10-30]

物が燃えることの謎を(燃焼という形態を)解き明かす中で、ラヴォアジエは、化学という近代科学を確立した。その前身たる錬金術は、物質を変換する方法を、とりわけ鉛を黄金に変える方法と永遠の命をもたらすであろう霊薬を産み出す方法を、探し求めてきたものである。その探求の結果、物質(material)とその変換過程[2]について、知見は整理されまとめられ、積み上げられていったが、物質(material)の本質について、またそれらがいかに反応し合うかということについて、理解に到達することはできていなかった。

[10-31]

ラヴォアジエは、物質(material)の理論と物理法則と計量可能な手法とに基づく新しい enterpriseをまるごと開発したのである。新しい科学の理論面における最も重要な項目は、質量保存という概念である。すなわち、燃焼も他のどんな化学反応過程も反応に関わる物の中に含まれる物質(substance)の相互作用によって成り立っており、反応後の物(material)の全質量は、反応前の全質量と正確に等しいものとなるのである。

[10-32]

このような急進的な変化に対して、この新しい化学の受容は比較的速く進んだ。その理由は、ラヴォアジエが物質(substance)の命名法とそれらの間の化学反応の表記法とを考案したからである。そのような明示的な記述を可能にすることは、それ自体が重要な前進であった。なぜならそれは、定量的な研究を促進するものであり、また、化学上の発見をあいまいさを含まずに広く伝えることを可能にするからである。なお燃焼は、酸素が他の元素(element)やその化合物(compound)と結び付いてエネルギーを放出する類の化学反応―酸化―の一例としてとらえられるようになった。

[10-33]

新しい化学が受け入れられた別の理由は、これがドルトンの原子説とよく調和したことである。イギリスの科学者ジョン・ドルトンは、ラヴォアジエの著作を読んで、原子説を展開したのである。ドルトンは、古代ギリシア的な元素(element)の考え方(idea)から、元素の組み合わさった化合物(compound)、そして原子、分子へと連なっていく諸概念、すなわちラヴォアジエが彼の体系に組み込んだ諸概念を、練り上げ詳しく論じ直していったのである。化合物(chemical combination)について詳しく説明するためのドルトンによる手法は、元素(principle)についてのラヴォアジエの体系により一層の独自性を与えた。というのも、化学的な作用を定量的に書き表わすための基礎を提供したのである。

[10-34]

この体系に従って、例えば木が燃える時には、元素の一つである炭素の原子それぞれがやはり元素である酸素の原子二個と結び付き、化合物である二酸化炭素の分子一個を形成し、その過程でエネルギーが放出される、と説明される。もっとも、炎や高い温度は必ずしも酸化反応に含まれる必要はない。錆や、体内での糖分の代謝は、室温で起こる酸化の例である。

[10-35]

ラヴォアジエとドルトン以来三世紀に渡って、この体系は、原子同士が互いに結合する時のそれら原子による分子構造を説明するために、またそれら原子がなぜそのように結合するのかを理由付ける原子内部の作用について詳しく記述するために、大きく拡張されていった。TOP

[10-36]

 

原子を分割する

物質の構造についての我々の理解の新しい局面は、19世紀の終わりにフランスでの偶然の発見と共に始まった。ウラニウムの化合物が、包みにくるまれていて現像されていなかった感光板を、いくらか黒く変質させたのである。これによって、この"放射性"の原因を探る科学的な試みが始まったのである。この新しい分野における先駆的研究者はマリー・キュリー、フランスの物理学者ピエール・キュリーと結婚していたポーランド生まれの若い科学者であった。マリー・キュリーは、ウラニウムを含んだ鉱石の放射性は極微量の高度な放射性物質によって引き起こされていると信じ、一連の化学的な処理によって、その高度な放射性物質の純粋なサンプルを作り出そうと、そしてまたその物質を特定しようと、試みたのである。彼女の夫は彼自身の仕事を脇へ置いて、計りしれないほど大量の生の素材[1]から捕えにくい痕跡を選別するという膨大な作業を手助けした。その結果は、二つの新しい元素の発見だった。そのどちらもが高い放射性を有し、ポロニウムとラジウムと名付けられた。

[10-37]

キュリー夫妻は、放射性についての研究によってノーベル物理学賞を受賞したが、彼らは自分達の発見を商業的には活用しないことを選んだ。実際のところ、彼らはラジウムを科学的なコミュニティが利用できるようにした。放射性の性質がさらに研究され得るようにしたのである。ピエール・キュリーの死後もマリー・キュリーは、自然科学の世界における女性に対する広範な偏見の下であっても自分は成功を収めることができるという強い自信を持って研究を続けた。そして彼女は成功した。彼女は1911年のノーベル化学賞を受賞し、二度目のノーベル賞を受賞した最初の人物となったのである。

[10-38]

その一方では同時に、マリー・キュリーが用いることができたものよりも良い設備を持った他の科学者達が、放射性についての重要な発見をし、それについての大胆な新理論を提案していった。ニュージーランド生まれのイギリスの物理学者アーネスト・ラザフォードはすぐに、この展開の速い分野の先頭に立った。彼とその同僚達は、ウラニウムでの自然に起こる放射性が、とても軽い元素であるヘリウムの原子になる粒子を放出するウラニウム原子によって成り立っており、そしてその後に残るものはもはやウラニウム原子ではなく、違う元素のわずかに軽い原子であることを発見した。さらなる研究が、この変化(transmutation)は鉛の安定した同位体で終わる一連の変化の一つであることを示した。ラジウムはつまりは放射性系列の一つでしかなかったのである。

[10-39]

この変化(transmutation)過程の発見は、科学上の発見の中での転換点となった。なぜならこれは、原子が実際には物質の最も基本的な構成単位ではないことを明らかにしたのである。それどころか原子自体が三種のそれぞれ全く異なった粒子から構成されていた、すなわち、陽子と中性子から成る小さく重い原子核が軽い電子による殻に囲まれているという構造を持っていたのである。化学反応が外側の電子のみに影響を与える一方で、放射性反応は原子核を変化させるのである。

[10-40]

しかしウラニウムの物語はまだまだ終わらなかった。第二次世界大戦の直前、ドイツとオーストリアの科学者達が、ウラニウムが中性子を放射する時に、ウラニウムの約半分の原子質量を持ついくつもの元素の同位体が生み出されていることを示した。彼らは、今や明らかな結論に見えることを受け入れることに気が進まなかった、つまりウラニウムの原子核が、ウラニウムの原子核よりも小さなほぼ同じ二つの原子核への分裂を引き起こされていたのだということを。この結論はオーストリア生まれの物理学者であり数学者でもあるリーゼ・マイトナーと彼女の甥であるオットー・フリッシュによってすぐに提起された。オットー・フリシュは"fission:核分裂"という言葉を導入した人物である。彼らは次のように注意を促した。アインシュタインの特殊相対性理論に沿って、もしも核分裂による生成物全ての質量の合計が元のウラニウム原子の質量よりも小さいならば、膨大なエネルギーが放出されることになるだろう、と。

[10-41]

核分裂はまた余計に中性子を放出し、これらはさらなる核分裂を引き起すことができるので、継続して巨大なエネルギーを放出する連鎖反応が引き起こされ得るように見えた。第二次世界大戦の期間中、イタリア生まれの物理学者エンリコ・フェルミに率いられたアメリカの科学者チームが、十分なウラニウムが一つ所に積上げられたなら、注意深い制御下において、連鎖反応が本当に維持され得ることを実際に示した。この発見は、アメリカ政府の核兵器開発を開始する秘密計画の基礎となった。戦争の終結までに、制御不可能な核分裂反応の威力は、日本の上でのアメリカの二発の核分裂爆弾の爆発によって実際に示された。この戦争以来、核分裂は、複数の国によって開発されていった戦略核兵器の主要な構成要素であり続けてきており、そしてまた、電力へ変換されるための制御されたエネルギーの開放という形で広く用いられてもきた。 TOP

[10-42]

 

生命の多様性を説明する

ダーウィンによって始められた知的革命は、大きな議論を巻き起こした。科学的に問題となったのは、現世生物および化石に残された過去の生物のものすごい多様性をいかに説明することだった。地球には幾千の異なる生物が生きていることが知られていた。そして、絶滅したと思われる多くの種類が存在したという大量の証拠があった。彼らはどのようにして存在するようになったのか。ダーウィン以前の時代の普通の見方は、種は変わらないというもの、すべての既知の種は時間が始まったときから、現在に至るまで全く同じであるというものだった。おそらく、まれには、破滅的災害によって全ての種が絶滅したか、食糧をめぐる戦いに敗れた種が絶滅したかもしれない。しかし、新しい種は出現し得ないのだと。

[10-43]

しかし、19世紀初頭には、種の進化についての考えが出現していた。ひとつの考え方は、環境条件によって生物は生きている間に少しずつ変化し、その変化は子孫への引き継がれるというもの。(たとえば、高い樹木の葉を食べようとして伸ばしたキリンの首が、子孫に引き継がれて、長い首を発展させた。)ダーウィンは進化について、これとはまったく異なる考え方を提唱した。ダーウィンは種内における子孫へ継承される形質の違いが、他の個体よりも生存しやすく、子孫を残しやすくすることを理論化した。(長い首を継承したキリンは、したがって、より生存しやすく、子孫を残しやすかった。) 世代を重ねて、有利な形質は、ある環境のもとでは、他を圧倒し、それよって新しい種を出現させる。

[10-44]

ダーウィンは彼の理論を提示するにあたり、長年にわたって集めてきた、理論を支持する膨大な証拠を、19世紀に出版された種の起源という本の中で提示した。生物学に対する劇的な影響は幾つかの事実からたどれる。ダーウィンが提示した論は従来の考えを一掃するものだったが、明白で理解可能だった。彼の論理の筋は、あらゆる点で生物学的および化石の証拠で支持された。自然選択と、動物の繁殖に使われる人為選択の対比には説得力があった。提示した論は、将来の研究を導く統一的フレームワークを与えた。

[10-45]

Tダーウィンのモデルに反対した科学者たちが、そうしたのは、自然選択についてダーウィンが提唱したメカニズムの一部を論破できたからか、ニュートン科学のような予測が立てられないと考えたからである。しかし、20世紀初頭までには、大半の生物学者は、生物学的遺伝メカニズムがまだ全体として理解されていなかったが、種は漸進変化するという基本的な考え方を受け入れた。今日では、進化が起きたことについての論争はない。しかし、進化を起こすメカニズムの詳細について論争が続いている。

[10-46]

一般大衆の中には、科学的理由ではなく、受け入れがたい言外の意味があると思えるものを理由に、進化の考え方を全体として拒絶する人々がいる。それは、ヒトと動物が共通祖先を持っていて、従って、血縁関係があること。そして、ヒトと他の生物が方向性と目的のない過程の結果として出現したこと。さらに、ヒトは下等な動物たちのように、生存競争および繁殖競争に参加していること。そして、さらに一部の人々にとって、進化の考え方は、ヒトと他のすべての種の特殊創造という聖書の説明を冒涜するものである。

[10-47]

20世紀初頭に、遺伝形質についてのオーストリアの実験者ぐれゴール・メンデルの、長年気付かれることのなかった成果が再発見された。それは、生物の形質の遺伝が、両親の流体の混合によってなされるのではなく、現在は遺伝子と呼ばれている、離散的な粒子を両親から受け継ぐことでされるという考えであった。もし生物がそのような粒子を多数もっていれば、そして繁殖の際に、何らかのランダムな並べ替えが起きるなら、ダーウィン進化に不可欠な、種内の個体間の差異が自然と生じることになる。

[10-48]

メンデルの研究の再発見から四半世紀以内になされた、顕微鏡での発見は、遺伝子が繊維から構成されており、2つに分割され、卵子と精子からの異なる遺伝子の組み合わせが再掲都合されることを示した。20世紀半ばまでには、遺伝子は、DNA分子の一部として見つかった。それは生物を構成する重要な素材の製造を制御していた。DNAの化学的研究は化学から生物学的進化への劇的な支持を与えた。DNAに見つかる遺伝子コードは、細菌からヒトまで、ほとんどの種で同じだったのだ。 TOP width="26" height="33" alt="Top button" align="right" border="0">

 

[10-49]

病原菌の発見

有史以来,人々は病気についてさまざまな説明を生み出してきた.多くの病気は精神的なものによるのだとみなされてきた──その人物の罪業への罰や,神や精霊の気まぐれな行いによるものとみられていたのである.古代からもっとも広く立てられてきた生物学的理論は,「病気はなんらかの体液の不均衡による」というものだった(ここでいう体液とは仮説上の液体で,その効果は記述されていたものの,化学的にこれと特定されてはいなかった).このため,数千年にわたり,病気の治療といえば超自然的な力に訴えようとして供物や生け贄をささげたり祈ったりするか,あるいは体液の調和をとろうとして吐瀉をうながしたり瀉血したり腹を下させたりすることだった.しかし,19世紀になって病原菌理論が登場すると,病気を引き起こす原因についての説明が変わるとともに,その治療法も性質を変えた.

[10-50]

遅くとも19世紀までには,病気の原因は自然的なものであり,病原体は身体の外部にあり,したがって医学はそうした病原体を突き止めてこれに対抗する化学物質をみつけるべきであるという思潮があらわれていた.しかし,まさかそのように病気を引き起こす病原体の一部には目に見えない生物があろうとは誰も考えていなかった.そうした生物はまだ発見されておらず,想像すらされていなかったためである.17世紀に顕微鏡のレンズと設計が改善されたことが,顕微鏡サイズの小さな植物や動物のつくる広大な新世界の発見につながった.そして,そこにバクテリアや酵母菌がいたのだ.しかし,こうした微生物が発見されたものの,これらが人間やその他の生物にどのような効果をもたらすのかまでは窺い知れなかった.

[10-51]

病原菌理論ともっとも結びつきの強い人名と言えば,フランスの化学者ルイ・パストゥールだ.微生物と病気との関連はたちどころに見てとれるわけではない──特に,(いま我々が知るように)大半の微生物は病気を引き起こさず,また我々にとって有益なものも多いのがその理由だ.パストゥールが微生物の役割を発見するに至ったのは,牛乳やワインを腐らせてしまう原因の研究をとおしてだ.腐敗や発酵は空気中から微生物が牛乳やワインに入り込んで急速に増殖し老廃物を生み出すためであることを彼は証明した.微生物を遮断したり熱で駆除した場合には食べ物が腐らないことを示したのだ.

[10-52]

実践的な治療法をみつけるべく動物の病気の研究に向かったパストゥールは,ここでも微生物が関与していることを示した.この過程で彼は病気を起こす生物──病原菌──の感染によって体内に免疫ができ,それ以後は同じ病原菌による感染が防がれるのを発見した.じっさいに病気にかからずに体内に免疫をつくるワクチンを生み出すことが可能だとわかったのである.パストゥール当人は特定の病気が特定のこれと同定可能な病原菌によって引き起こされると厳密に実証したわけではない.しかしそうした研究は他の化学者たちによってまもなく達成された.

[10-53]

病原菌理論を受け入れた結果,科学と社会の双方に多大な変化が生じた.生物学者は微生物の同定と調査に向かい,数千種にも及ぶバクテリアやウイルスを発見し,生物どうしの相互作用についての理解を深めていった.実用面での帰結としては,人間の医療行為が次第に変わっていった──食べ物と水の安全な取り扱い,牛乳の加熱殺菌,公衆衛生のさまざまな手段の使用,隔離,予防注射,清潔外科手技が行われるようになり,さらには一部の病気は実質的に根絶された.今日では,高性能な画像化の現代的テクノロジーやバイオテクノロジーによって,どのようにして微生物が病気を引き起こし,どのようにして免疫系がこれに対抗するのかを研究するのが可能となっただけでなく,それらの遺伝子操作の方法まで調べられるようになっている. TOP

 

[10-54]

動力の活用

"産業革命"という言葉は、いろいろな物がどのように作られるか、また社会がどのように組織されるか、という点において非常に大きな変化が起こった歴史上の長い期間を指している。その変遷は、農村の手工芸的経済から、都会の製造業へ、というものであった。

[10-55]

最初の変化は、19世紀にイギリスの織物産業で起こった。それまで織物は、何世紀もの間使われ続けてきたものと本質的には同じ技術と道具を使って、各家庭で作られていた。そこで使われていた機械は、その時代の道具が全てそうだったように、小さくて手製であり、人の手や、風、または流れる水を動力としていた。そのような状況は、糸を紡ぐことと布を織ること、そしてエネルギー資源を用いることについての一連の発明によって、急激に、そして元に戻せない程に変化した。機械設備が人の手による工芸に取って代わり、石炭が機械を走らせる動力源としての人間や動物に取って代わり、そして集中的な工場のシステムが、各家庭が中心だった分散的な生産システムに取って代わった。

[10-56]

産業革命の核と言うべき重要な要素だったのは、蒸気機関の発明と改良だった。蒸気機関は化学的エネルギーを機械的エネルギーへと変換するための装置である。つまり、燃料が燃え、放出された熱が水を蒸気に変えるために用いられ、その蒸気が今度は車輪やレバーを駆動するために用いられるのである。蒸気機関は最初に、石炭や鉱石の鉱山から溜まってしまった水を排出するためという実用上の必要性に応えた発明家によって開発された。スコットランドの発明家ジェームズ・ワットが蒸気機関をすばらしく改良した後は、蒸気機関はすぐに、工場で機械を駆動するためにも用いられるようになり、また、鉱山で石炭を運ぶためにも、そして鉄道の機関車や船、やがては最初の自動車を動かすためにも用いられるようになった。

[10-57]

産業革命は最初にイギリスで起こった。これにはいくつかの理由がある。すなわち、科学的知識を実際的な仕事に応用しようとするイギリスにおける傾向、工業発展を支持した政治体制、原料(raw materials)が、特に大英帝国の多くの場所からこれらがもたらされ、利用可能だったこと、そしてイギリスがさらなる原料(raw materials)(綿花や木材)を利用することや織物の売り付け先となる巨大な市場への往来を可能にした世界最大規模の商業艦隊、である。イギリスはまた、農業において、安価な耕作器のような新機軸を導入することを経験していた。これは以前よりも少ない労働者でより多くの食料を生産することを可能にし、その他の労働者を新しい工場で働くことへと開放したのである。

[10-58]

経済的また社会的な影響は重大であった。新しい生産機械は高価であったため、それらは主には大量の資金を持っている人々に利用可能なものであり、ほとんどの家庭では手の届かないものだった。労働者と機械とを一緒に集めた家庭外の作業場が、結果として工場になるか、工場へと発展していった、最初は織物産業において、そしてその後に他の産業においても。長い見習い期間をかけて習得されるような技術を必要とした伝統的な工芸とは違い、比較的未熟な労働者でも新しい機械は扱うことができた。そのため、余剰となった農業労働者や子供達が、雇用されて稼ぎのために働くことが可能だったのである。

[10-59]

産業革命は西ヨーロッパ中に拡がり、そして大西洋を横断して北アメリカへと拡がった。これによって、西欧社会において、19世紀は生産性の向上及び資本家の組織の優位性によって特徴付けらる時代となった。この変化は、巨大で複雑で相互に関係している各種産業の成長、そして全人口の急速な増加と農村部から都市部へ人口の急速な移動とを伴なっていた。そこでは高まっていく緊張が生じもした。一方には、管理をし、生産から利益を得ていた人々がおり、もう一方には、かろうじて食べていけるだけの賃金のために働いている労働者がいたのである。かなりの部分において、20世紀の主要な政治的イデオロギーは、産業革命によって経済面に現われた影響に端を発しているのである。

[10-60]

狭い見方をすれば、産業革命は歴史上のある特定のできごとを指す言葉である。しかしより広く見れば産業革命はまだ終わっていない。イギリスにおいてのその始まりから、工業化は世界のある地域へは他の地域へよりもずっと速く拡がり、そしてある地域へはようやく届いたばかりである。工業化が新たな国へと到達した時には、地域的な諸事情によって生じる細かな差異は伴なうものの、通常は、19世紀にヨーロッパや北アメリカで起きたのと同じくらい、経済的、政治的、社会的な影響は劇的に生じている。

[10-61]

さらにはこの革命は、蒸気力と織物産業を超えて、人々の生活の仕方においてそれぞれがその巨大な影響を及ぼしてきた一連の新しい技術的発展を組み込むことへと展開していった。代わる代わる順番に、電気技術、電子技術、そしてコンピューターテクノロジーが、交通、通信、製造、そして健康に関わる技術や他の諸々の技術を劇的に変えていき、仕事や余暇のあり方を変え、また世界がどのように動いているかということについてのさらに深い多くの理解や認識[1]へと導いていったのである(新たに工業化が進んでいる国々での変化の進みはさらに速くになるかもしれない、というのも次々続いていく革新の波がより短い間隔でやって来るからである)。このようにして、継続しているこれら産業革命のそれぞれが、不可避の、そしてなお成長中の、科学と技術の相互依存性を顕に示しているのである。 TOP

この記事へのコメント
10章は終了しています。
[10-42]-[10-48]
http://transact.seesaa.net/article/93999908.html
(Kumicitさん)

[10-49]-[10-50]
http://d.hatena.ne.jp/optical_frog/20080410/p1
(optical_frogさん)

[10-51]-[10-53]
http://d.hatena.ne.jp/optical_frog/20080410/p2
(optical_frogさん)
Posted by hoyt at 2008年04月26日 20:08
コメントではなく、質問です。
[10-50]の冒頭部分、原文で、as early as the sixteenth centuryとなっている部分を「遅くとも19世紀までには」と訳されていますが、原文に何か誤りがあり、改訂されたのでしょうか?
教えて下さい。

Posted by Luke at 2009年08月11日 22:02
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